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鉄の展示館特別展
『男谷燕斉の書~幕府祐筆の手跡~』を開催します

 

 坂城町鉄の展示館では、12月11日(火)から平成31年2月3日(日)まで、特別展『男谷燕斉の書~幕府祐筆の手跡~』を開催します。
 イベント内容等、詳しくは鉄の展示館までお問い合わせください。

記念講演会「男谷燕斉とその時代」
  • 講師 田口 佳史 氏(株式会社イメージプラン代表取締役社長)
  • 日時 12月15日(土) 午後2時~(午後1時30分開場)
  • 会場 鉄の展示館ホール
  • 参加費 無料(入館料がかかります)

 

男谷燕斉の書~幕府祐筆の手跡~

 

男谷燕斉(おたに えんさい)について

 男谷燕斎(彦四郎)は、安永6年(1777)に旗本 男谷平蔵忠恕(米山検校の子)の長男として江戸に生まれました。寛政9年(1797)には部屋住みの身(家督相続前)で、幕府の勘定職に任命され、寛政12年(1800)には幕府の表祐筆に任命されました。
 文化11年(1814)1月に信濃中之条陣屋に代官として赴任し、文政4年(1821)6月に越後水原代官所に異動するまで8年の長きにわたり、この地を治めました。
 中之条在陣中は、有力百姓層に資金の出資を促し、救荒に備える政策を実施し、民生を安定化させたほか、文政元年(1818)には懸案であった、千曲川を挟んで対峙した幕府領と松代藩領の境界争いを終結させるなど、様々な事績を残した名代官として知られています。
 中之条代官に赴任する前は、幕府で表祐筆を務めるなど能書家としても知られ、幕府が編纂した、大名家や旗本の事跡を収集した『寛政重修諸家譜』の編纂に加わりました。また、文化8年(1811)の対馬に於ける易地聘礼(最後の朝鮮通信使)では、朝鮮国王への返書の別副を書すべく荒波の玄界灘を渡りました。
 上記の『寛政重修諸家譜』及び易地聘礼を実質的に取り仕切っていたのが、幕府直轄の最高教育機関である昌平坂学問所の大学頭である林述斎でした。幕府の儒学及び文書行政の権威たる林述斎の引き立てが燕斎の生涯に強く影響している事は想像に難くありませんが、これも燕斎の実力のなせる業でしょう。
 文政6年(1823)に江戸城二ノ丸御留守居に任命され、布衣(六位相当)に昇進しました。文政8年(1825)に西ノ丸裏御門番頭に進んだ後、天保8年(1837)に小十人頭(1,000石以上の大身旗本格)に任命され、極官に至りました。
 燕斎に書を学んだ人々は、尾張藩10代藩主徳川斉朝、佐賀藩10代藩主鍋島直正をはじめ、草場佩川、中林悟竹、川上華顛、小西有実などで、幕末から明治に活躍した教育者・書家に影響を及ぼしました。
 坂城町域においても、代官赴任中によるものと思われる書が多く伝来しています。一地域にこれほど多くの伝来品が残されている場所はなく、当地における燕斎と民衆の交流が濃密であった事を語っているものと思われます。
 本展覧会では、北は新潟県阿賀野市から南は佐賀県佐賀市まで、全国から作品を集めました。作品群をみわたしますと、実に多様な作風が見て取れます。調査・鑑定の結果から、年代による一様な変化ではなく、常に様々な書風を駆使していたことが分かってきました。これら、燕斎が筆を変幻自在に操った作品群を心ゆくまで堪能していただけたらと思います。

男谷燕斉年譜

安永6年(1777) 旗本男谷平蔵忠恕の長男として江戸に生まれた。(安永7年説もあり)
寛政9年(1797) 部屋住みの身で、幕府の勘定職に任命された。切米百俵。
寛政10年(1798) 男谷精一郎信友出生。(有力説)
寛政12年(1800) 幕府の表祐筆に任命された。
文化8年(1811) 壱岐・対馬出張。朝鮮国王への返書の別幅を書した。「飽食緩行初睡覚…」を書す。
文化9年(1812) 『寛政重修諸家譜』完成。
文化10年(1813) 中之条代官に任命された。(この年、鍋島直正出生)
文化11年(1814) 1月22日、中之条陣屋(代官所)に着任。信濃一ヶ国総取締に任命された。
7月18日、西念寺所蔵の『般若心経』を書す。坂木村(幕府領)と五明村・網掛村(松代藩領)との境争い起こる。
文化13年(1816) 「瞻前而顧後」を書す。この年に測量された伊能忠敬の江戸府内実測図に、「男谷彦四郎」の屋敷がみえる。
文化14年(1817) 耕雲寺に燕斎の娘の墓石が建立された。坂木村全村検地。この年に、勝小吉が信州よりの年貢金から二百両盗んだか。
文化15年/
文政元年(1818)
同族の男谷信友(精一郎)を次女鶴の婿養子にした。(信友1798出生説による) 
勝小吉、中之条陣屋に来訪か。9月22日、代官仲間の竹垣三右衛門直清より松茸をもらう(竹垣直清の日記)
文政2年(1819) 勝小吉中之条陣屋に来訪か。緩い検見で百姓を喜ばせたという。
文政4年(1821) 越後国水原代官所(新潟県阿賀野市)に異動。支配地が一万石増加した。
文政6年(1823) 江戸城二ノ丸御留守居役に任命された。布衣(六位相当)に昇進。
文政8年(1825) 西ノ丸裏御門番頭に任命された。(この年、異国船打払令)
天保7年(1836) 「漱井消午酔…」を書す。(「大納言様御書御師範旗本男谷 男谷彦四郎の書」と裏書あり)
天保8年(1837) 小十人頭(1,000石以上の旗本格)に任命された。(この年、大塩平八郎の乱)
天保10年(1839) 焼山の墾田碑(佐賀県武雄市)の篆書を揮毫した。朝鮮通信使迎接で同席した草場佩川の求めによるものか。(この年、蛮社の獄)
天保11年(1840) 病没。深川の増林寺に葬られた。(この年、アヘン戦争)

 

地図

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このページに関するお問い合わせ

商工農林課 商工観光係 鉄の展示館
電話番号:0268-82-1128

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