41-QbT21W3L._SL500_AA300_.jpg 05c58c086c5ea5d8c00eb753b811250f.jpg img0000.jpg 村上義清は戦国時代の武将で、信濃守護の小笠原長時と勢力を分けた武将。
信濃守護の小笠原が国を統率する能力があって、もうちょっとしっかりしていたら、時代が変わっていたかもしれない。
信州に攻め込んできた武田晴信(信玄)に「塩尻峠の戦い」であっさり敗れた。その時、信州で勢いをもつ国人を活かして、防戦しようとする器量も考えもなかった。
それを思えば、義清は良くやったと思う。信玄を「上田原の戦い」と「戸石崩れ」の二度にわたって、苦しめたのは、本当に大したものだ。
信玄が佐久に進出してきたが、佐久の地では非常に悪い事をされたとの反感が絶えない。
義清は政治に疎かったといわれているが、そんなことはないと思う。
長尾景虎(上杉謙信)は、義清について、「武力」だけではなく、「人となり」を評価し、家臣に迎え入れたのである。
村上義清 供養塔
義清が当地で、非常に慕われていたことがこの供養塔からわかる。
江戸時代の坂木五千石の代官、長谷川安左衛門利次が建てたもの。義清没後、84年後の明暦3年(1657)の事であった。
他に義清の供養塔(墓)は、
(1)糸魚川の根知の安福寺
(2)上越市直江津の光源寺  などにある。
葛尾城 葛尾城跡は葛尾山頂(標高805m)にある。
城郭構造は山城で築城主は村上氏。
築城年は室町時代、主な改修者は村上氏、武田氏、上杉氏、森氏であるが、
主な城主は村上氏である。
葛尾城跡と村上氏の館跡を併せて長野県史跡に指定されている。